東京から倉敷市へ移住。大きな環境の変化にも前向きに。
原知義さん・聡美さん夫妻
1994年頃、夫婦と小学生の子二人とで東京からやってきた原さん一家。倉敷市や総社市のベッドタウンとして近年人口が増えている真備地区に住んでいます。
- 移住時の年代
- 30代
- 家族構成
- 夫婦と子供
- 移住スタイル
- Iターン
- 移住時期
- 1994年頃
自然あふれる場所への移住
1994年頃、夫婦と小学生の子二人とで東京からやってきた原さん一家。
倉敷市中心部や総社市のベッドタウンとして近年人口が増えている真備地区に住んでいます。
夫の知義さんも妻の聡美さんも東京都出身。
普段の遊び場が日比谷公園で遠足が東京タワーというような、東京のど真ん中で育ちました。真備地区との縁は、知義さんの両親が岡山県新見市の出身だったこと。新見市に住んでいる祖父母を知義さんも度々訪れており、その度に倉敷市に立ち寄っていたそう。
結婚後には聡美さんも足を運ぶようになり「このあたりになら住んでもいいなぁ」という思いがふくらんでいったそうです。移住決定のタイミングは、一番上のお子さんが小学校に上がったとき。自然に囲まれた場所で子育てをしたいという思いからでした。
環境の変化と充実した暮らし
知義さんは東京で医療機器会社に勤めていたため、こちらでも同じ職種の仕事に就きました。東京から何件か電話し、夜行バスで通って仕事を決めたそうです。職場は岡山市にあり、車で通勤をしています。
真備地区に住んでからの環境の変化は劇的でした。「まず夫は”ネオンがない”って言ってました」と笑いながら話す聡美さん。
東京にいた頃の知義さんは、仕事帰りに取引先の人や仕事仲間、学生時代の友人などと飲んで帰ることが多かったそう。
真備地区に来てからは車通勤になったこともあり終業後はまっすぐ帰るように。知義さんは少し寂しそうですが、体を心配していた聡美さんは安心の様子でした。また、狩猟をしている知義さんは、東京にいたころは2時間かけて群馬まで行って猟をしていました。
今は近くでできるので狩猟期間中は休みの度に出かけ、時には新見の方まで行って仲間と一緒に猪狩りをすることもあるそうです。
原さん一家が引っ越してきた20数年前の真備町(当時は吉備郡真備町)は、商業施設や公園も少なかったそう。
「のんびりとした雰囲気で、東京にいたころとは時間の流れが少し違うように感じていました。あまりにも環境が変わりすぎて最初は気が抜けたようになったけど、1年くらいで慣れましたね」と当時のことを振り返っていました。
「少しずつ近くにスーパーやショッピングモールができ、道路や橋が整備され、図書館やふれあいセンターなどの公共施設も増えていきました。元々良いところではあったけど、自然と施設とのバランスがよくなって、より暮らしやすくなったと思います。倉敷市は周辺に病院も充実しているのでとても住みやすいです」
聡美さんは、こちらに来てまもなく酒津公園のプレーパーク立ち上げに参加。現在もスタッフを務めており、真備地区で生まれた3人目のお子さんも、プレーパークでのびのび遊んで育ったそうです。
また、自宅1階ではアトリエ教室をしています。絵を描いたり粘土で作ったり、子どもたちが作りたい物を作れる環境を作っているそう。「土や石、紙みたいに、自然に近い物をできるだけ使おうと思っています。
近所の大工さんが木を持ってきてくださったり、アトリエに通う子の父兄さんも材料になりそうなものを持ってきてくださったり。近所の方みんなが協力してくれるのでとても助かっています」と聡美さん。評判は口伝えで広まって、近所の子どもたちが通っています。
「その場所を好きになること」
原さんのお子さんたちは、長男は大学院卒業後に県外の会社で研究職についており、長女は陶芸家。真備地区に来て生まれた次女は保育士として就職が決まっています。
オレンジ色の壁に蔦が這うかわいい家が原さんの住まい。倉敷を気に入った聡美さんのご両親が引っ越してくることになり、それを機に2000年に建てました。2階が原さんの住居、1階がアトリエ教室と陶芸家である長女のアトリエ、そして聡美さんのお母様の住まいになっています。「母はここで友達もできて、ちぎり絵教室や童謡教室に行ったり、体操に行ったりして、すごくエンジョイしてますね」
ニコニコとお話してくださった原さんご夫婦。移住を考えている方へのメッセージをいただくと「環境の変化に最初は慣れないかもしれないけど、まずはその場所を大好きになる努力を少しだけしてみること。
どんなことも楽しみや笑いに変えて、どうにかなると前向きに考えることが大切かなと思います」とのこと。こうした思いを持って日々を過ごされているからこそ、充実した笑顔が生まれているのだと実感しました。